クレンペラー ベートーヴェン交響曲第2番 1958

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こんにちは、
ともやんです。

クレンペラーが、『クレンペラー 指揮者の本懐』の中で、」1927年にアメリカの音楽誌のインタビューに答えた内容が載っています。

インタビューに答えたいたのは、「ミュージカル・アメリカ」誌に対してです。

この内容から、後年のクレンペラーの演奏に対する姿勢が少しながら知ることが出来ます。

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クレンペラー ベートーヴェンについて

1927年の「ミュージカル・アメリカ」誌のインタビュー記事から、一部引用しながらコメントしたいと思います。

「ベートーヴェンについては何を言うことがありましょう。彼は天才です。もし長生きできれば、いつの日かベートーヴェンの音楽をそれに相応しく演奏できることを望むばかりです。
ベートーヴェンが今日の作曲家になんらかの影響を及ぼしているとは思いません。彼はロマン主義者で主観的でした。今日の作曲家は客観的であり、むしろバッハに遡っています。」

クレンペラーが、インタビューを受けた時は42歳で、この後ドイツは、ナチスの時代になり彼は、ユダヤ系ということで多くの障害にぶつかりアメリカに亡命します。またそこでもあらゆる苦難が待ち受けていました。

戦後、ヨーロッパに戻っても脚光を浴びるまでにはかなりの時間を要しました。
しかし、50年以降の彼の録音を聴くと、ベートーヴェンはまさにクレンペラーの中心のレパートリーとなり、スタジオ録音、放送録音、ライブ録音の多くの素晴らしいものを残しています。

そして次のコメントは興味深いです。僕が、例えばベートーヴェンの第5交響曲において木管がメロディーを奏でる部分で弦の音量を抑えたりする演出が理解できます。

「たとえば第九交響曲のスケルツォには、楽譜通りに演奏しても主テーマが完全に埋もれてしまう箇所があります。このような場合だけ指揮者は変更を行い得るのです。主テーマを明瞭に聴かせるためです。だから、ヴァーグナー以来、もはや誰も『第九』を作曲された通りには聴いていないわけです。もっとも、そのような変更は洗練されたものでなければならず、本当に必要と思える場合に限ります。」

この交響曲第2番の演奏にも第一楽章に木管を聴かせるために弦の音量を抑えるシーンがあります。ぜひ、聴いてみてください。

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クレンペラー ベートーヴェン交響曲第2番 1958

ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン – Ludwig van Beethoven (1770-1827)
35:22交響曲第2番 ニ長調 Op. 36
Symphony No. 2 in D Major, Op. 36

1.(13:05) I. Adagio molto – Allegro con brio
2.(11:46) II. Larghetto
3.(03:44) III. Scherzo: Allegro
4.(06:47) IV. Allegro molto
total(35:22)

ベルリン放送交響楽団 – Berlin Radio Symphony Orchestra (Radio-Sinfonie-Orchester Berlin)
オットー・クレンペラー – Otto Klemperer (指揮)
録音: 29 March 1958, Hochschule fur musik, Berlin

ベルリンRIAS録音集 1950-58 オットー・クレンペラー ベルリンRIAS交響楽団

マーラーの推薦を得て、1907年にプラハで指揮者としてデビューしたのちのクレンペラーは、バルメン、シュトラスブルク、ケルン、ヴィースバーデンといった歌劇場の指揮者を歴任し、急速にドイツを代表する指揮者のひとりとして注目を浴びるようになりますが、クレンペラーのキャリアのなかでも重要な活動として知られるものが、1927年に始まるクロール・オーパーでの仕事でした。
ベルリン国立歌劇場の一部門として創設されたクロール・オーパーでは、クレンペラーのもと、ヒンデミットの「カルディヤック」「今日のニュース」、シェーンベルクの「期待」「幸福な手」、さらにクレンペラー自ら演出を手掛けたストラヴィンスキー「エディプス王」「マヴラ」など同時代の作品が積極的に紹介されると同時に、旧来の有名な曲目に対しても新しい現代的な演出が試みられますが、その意欲的な試みは多くの支持と反発を引き起こすことになります。
さらに、折からのドイツ経済の危機的状況とナチスに代表される右翼の圧力から、1931年に劇場は閉鎖に追い込まれてしまい、1933年ついにクレンペラーはナチス・ドイツ政権を逃れてアメリカ合衆国に移住します。
こうした経緯もあって、おそらく文化的・政治的状況のために、クレンペラーが第2次大戦後にヨーロッパに戻ったあとも、クレンペラーと戦前因縁のあったベルリン国立歌劇場は一切の接触を断ったままで、ベルリン・フィルとRIAS響がクレンペラーを客演に招いているものの、「ベルリンでのクレンペラー」の演奏の絶対数は決して多いとは言えない状況なので、こうしてまとめてリリースされる意義はきわめて大きいといえるでしょう。

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