クレンペラー ベートーヴェン”運命” ロサンジェルスフィルとの異常

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こんにちは。
ともやんです。

オットー・クレンペラーが、1935年1月1日にロサンジェルスフィルを指揮したライブ録音が、その劣悪な録音から聴こえる演奏の異常さにぶっ飛びました。

Otto Klemperer The Collection オットー・クレンペラー

※現在単独盤が見つけられず、僕も所有するCD72枚組の「Otto Klemperer The Collection」しかお勧めできないのが残念です。ただし、このボックスセットは一生楽しめます。

当日プログラム
「シチリア島の夕の祈り」序曲 ヴェルディ
交響曲第5番ハ短調”運命”ベートーヴェン
「ニュルンベルクのマイスタージンガー」前奏曲

とにかく異常な迫力です。

1933年1月30日にアドルフ・ヒトラー率いるナチスが政権を取りヒトラーが首相となりました。

当時オットー・クレンペラーは、47歳。
1920年代からベルリンで活躍する人気指揮者でした。
しかも現代音楽を積極的に取り上げる進取気鋭の指揮者でもありました。

ところがナチスが政権を取ってから2週間足らずで事件が起きました。

2月12日夜、ベルリンのプロイセン州立歌劇場でオットー・クレンペラーの指揮で、新演出によるワーグナーの「タンホイザー」が上演されていました。

ところが第三幕のため、クレンペラーがオーケストラピットに登場すると、拍手と怒号が行き交う大騒ぎになったのです。怒号はナチスによる妨害でした。

クレンペラーはユダヤ系だったため、ナチスの息のかかった新聞でも公然と酷評されました。
この事件が、ナチスが公然と音楽に介入した事件となりました。

これ以降、ドイツ、オーストリア圏内のユダヤ系の音楽家は、亡命や逃避を余儀なくされ人生を狂わされました。

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クレンペラー ロサンジェルスフィルの音楽監督に

クレンペラーもその一人で、ここから長く辛い苦難の始まりになったのです。
翌2月にはライプツィヒ・ゲヴァントハウス管とのリハーサル中に指揮台から転落し激しい脳震盪と左半身を打撲しました。
これが遠因となり後年脳腫瘍の手術を受けています。

クレンペラーはナチス政権下での妨害に耐えられず同年アメリカに亡命、33年10月にロサンジェルスフィルの音楽監督に招かれました。

当時のロサンジェルスは、クラシック音楽後進地で、クレンペラーは、その環境を少しでも向上させようとラジオで解説したり、ハリウッドボウルで演奏したり、出資者に向けて演説したりと熱心に活動しました。
ただ残念ながら6年後の39年に脳疾患で当オケを去っています。

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もしクレンペラーがもっと活動していたらロサンジェルスフィルは、東海岸のニューヨークフィルと張れる存在になっていたかもしれません。

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クレンペラー コレクション 深く知るための名セット

さて、演奏は異常なまでの迫力です。

クレンペラーは、第二次世界大戦後ヨーロッパに戻り、そこからも苦難が続きますが、ようやく50年代半ばからEMIのウォルター・レッグと出会い、多くのスタジオ録音を残し、20世紀最大の指揮者の一人と認識されるに至りました。

しかし、30年代半ばで既に巨匠であったことを証明するする演奏です。
劣悪な音質の向こうからロサンジェルスフィルの奏者たちが学生オケのように必死に懸命にクレンペラーの棒に食らいついている様が聴こえてきます。

しかもベートーヴェンの運命の第1楽章が終わって拍手が起こるなど、当時の聴衆のレベルもわかります。

後年の偉大なクレンペラーだけを聴くのもいいですが、ぜひ壮年期、ヨーロッパを追われながらも必死に音楽を追求し続けていたクレンペラーの生き様が分かるいい演奏です。

ただし、音質は良くないです。ちゃんと自分の中のフィルターで変換できる人におすすめです。

CD71に収録
「シチリア島の夕の祈り」序曲 ヴェルディ
交響曲第5番ハ短調”運命”ベートーヴェン
「ニュルンベルクのマイスタージンガー」前奏曲

Otto Klemperer The Collection オットー・クレンペラー

まとめ

ワルター、クレンペラー、フルトヴェングラーを代表とする1933年1月30日にナチスが政権を取ったことで当時壮年期で体力的にも音楽的にも絶頂期だったにもかかわらず、人生を狂わさせられ、苦難の道を歩むことになりました。

戦争の無意味さを知るためにも永遠に記録と記憶に留めならないことです。

彼らの演奏を聴くことは歴史を知ることでもあります。

とにかくこれからも聴いて行きます。

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